尾高智神社・御頭神社

2015年01月12日 16:19

お正月は近所の神社にしか初詣に行けませんでしたが、昨年、
次女の受験と、自分の病気のことでお参りに行った、少し山奥の神社に今年も遅い初詣に行ってきました。
うちの地元でも知る人ぞ知る所なのですが、なぜこの神社が頭の病気と学問の神様なのかには
由来があります。
実はその由来に関わる神社は2か所(結構離れている)あるのですが、昨年はそのうちの1か所にしか
行っていませんでした。そこで今年は少し遠いですがもう1か所にも行ってきました。

まずは由来の引用です。


第10代佐伯栂牟礼城の城主:佐伯惟治(さいきこれはる)公は、若くして優れた政治を行い、民や家来の信望を集めていました。しかし、その権勢を妬む輩が、「惟治は謀反を企てているようです。」と大守である大友義鑑(よしあき→大友宗麟の父)に事実無根の告げ口をします。

惟治は、「決してそのようなことはありません。」と言い張りますが、日頃から彼を快く思っていなかった義鑑は、臼杵近江守長景に「惟治を殺せ!」と命令します。長景は2万の兵を挙げて、栂牟礼城を攻めますが、険しい山城をどうしても落とすことができません。

そこで、惟治を騙すために使者を送り、「私が義鑑公の怒りを解くから、この城を明け渡して、日向の国に身を寄せなさい。」と伝えました。惟治は、この言葉を素直に信じ、可愛岳(延岡市北川町)に身を寄せます。

ところが、待てど暮らせど長景からその後の連絡がありません。しびれを切らした彼は、伊予に出ようと決心し、家来を率いて北進します。三川内(延岡市北浦町)の尾高智山(おたかちやま)に来たところで、長景の命令を受けた一行に出くわし、ここで惟治は必死に抗戦しますが、多勢に無勢、ついに彼は33歳の若さで悲憤の最期を遂げます。大永7年(1527)11月のことでした。

生き残った家臣の一人は、主君の首を敵に渡してはならないと、小袖に包み、暗闇の中を懸命に逃げのびました。敗走の途中、疲れを癒すため瀬口宝泉寺(延岡市北川町)で一息つくことに。休憩の後、出発しようと思い、木にかけていた小袖の包みを手に持つと、不思議なことに、それが急に重くなり、どうしてもその場から動かせなくなりました。家臣はどうしてよいか迷い、事の次第を宝泉寺の住職に打ち明けます。すると住職が読経を唱え、惟治の首を境内に手厚く葬ってくれました。

住職が、毎年祭祀供養を施すことで、惟治の霊はようやく鎮まり、御頭大明神として人々から慕われるようになりました。その後、文武両道に優れていた惟治公は、学問の神様として信仰を集めるようになり、現在、受験シーズンには地区内外から多くの人達が合格祈願に訪れています。また、この神社は、頭の病気を治す神様としても御利益があるそうです。

結構壮絶なお話です。


ここが昨年は行けなかった、惟治が切腹した場所といわれる尾高智。
DSC_9775.jpg
そしてここが惟治の首が動かなくなり祀ってあるといわれる御頭です。
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コメント

  1. こた | URL | -

     なるほどネェ~
     そういう由来もじっくり読むと、興味引かれるモンだネ。
     しっかし、山奥にありそうで、いかにも「知る人ぞ知る」ってな感じ。
     訪れる人も少ないだろうから、その分、ご利益も大きいのでは…?(笑)

  2. SMO | URL | -

    こたぽん

    少しは落ち着いた?

    訪れる人も少ないどころか
    誰とも会わなかった(笑)
    人っ子一人・・・

    あっ、行く途中、猿一匹見かけた(笑)

    信仰心のかけらもないけど
    レイの受験は本当にお世話になったと感謝しています。

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